駄文徒然日記

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『人質の朗読会』 小川洋子

小川洋子さんの文章が好きである。
シェークスピアの「きれいは汚い、汚いはきれい」じゃないけど、
一見「汚い」に分類されそうな題材をかくもきれいに登場させてしまうのかと驚いてしまう。
以前読んだ「猫を抱いて像を泳ぐ」でも見た題材があれもこれも出てくる。
太りすぎた男、目やに、臓物、ミイラ…歪だったりグロテスクですらあるものさえも、
小川ワールドであれば、澄みきった世界にたちまち溶け込んでしまうのである。
きれいや汚いは、見る人のフィルターで判別されてしまうだけのことかもしれない。
小川さんのフィルターにかかれば、こんなに美しく輝きだすのだもの。
 
<内容紹介>(「BOOK」データベースより)
遠く隔絶された場所から、彼らの声は届いた。紙をめくる音、咳払い、慎み深い拍手で朗読会が始
まる。祈りにも似たその行為に耳を澄ませるのは人質たちと見張り役の犯人、そして…しみじみと
深く胸を打つ、小川洋子ならではの小説世界。
 
本当にタイトルどおりに、日本の裏側でツアー参加中の八人の日本人が、反政府ゲリラの「人質」になり、
そこで退屈しのぎに「朗読会」を始めるというお話である。
しかも人質は全員爆死してしまうということが冒頭でわかっている。
そんなやたら物騒な設定なのにもかかわらず、小川さんらしく静かに物語は語られていくのである。
 
世の中の「正しい」や「きれい」からはみ出したものたちを、丁寧にすくい上げるかのような、お話たち。
このお話に出てくる人たちは変わり者ばかりに見えるけれど、世間からはみ出た人なのではなくて、
はみ出してしまった部分なのだ。前に倣えな世間から取り残された部分を、朗読者はただ許容する。
そしてそこにこそ心に引っかかるものがある。
このお話たちは、朗読者の中で絶えず心に住みついたものたちで、
それは彼らにとって心の拠り所であったり、忘れられない疼きであったりするのだと思う。
 
第六夜の「槍投げの青年」の中で、語り手の女性が最後にこう話す。
 
  ただ一つあの日とそれ以降で違うのは、私の胸の中に、槍投げの青年が住み着いた、ということだ
  ろうか。他人から見れば単なる錯覚に過ぎないのだろうが、しかし私にとっては大変な変化だった。
  青年の槍投げを見た私は、もう決して、見ていない私には逆戻りできなかった。
 
ささやかだけどどうしても心から離れない、そんな、人生の礎にもなったお話たちなのである。

「人質」と言う閉塞され追い詰められたような極限の状態で、しかし穏やかに語り出される朗読会の物語たち。
自分自身の奥の奥まで静かに見つめて、やがて自分の中の揺るぎない芯、
「未来がどうであろうと決して損なわれない過去」を見つけるのだ。
 
一つ一つただの短編集として見ても十分な作品集なのだが、
人質の朗読会」という枠でくくることで、また微妙な余韻を醸し出す。
一つ一つの話の最後に添えられる新聞記事のようなプロフィール、例えば、
「(インテリアコーディネーター・五三歳・女性/勤続三十年の長期休暇を利用して参加)」とあるのも、
色んな感慨がある。
それは語られたお話の続きを見ることであり、現状を知ることであり、
その先の未来が失われてしまったという寂寥感だったりする。
そして、遠い外国という舞台は、日本人の遠慮深く慎ましい様を際立たせ、
日本語の、謙虚でありつつも、柔らかく沁み入る心地よさを「朗読」させることで祈りにまで昇華させる。
 
そんな小川さんの手腕には、ただただため息をつくばかりなのである。
 
星は四つ。
だけど独特な世界だから、好き嫌いは分かれる作品だろうなぁ。
小川洋子さん好きなら、是非!