駄文徒然日記

移行したばかりです。これから整理していきます。

『ゼラニウムの庭』 大島真寿美

大島真寿美さんの本を読むのは、「ピエタ」に続いて二冊目です。
ピエタ」同様、淡々とゆっくりと足跡を残していくように物語が綴られていました。

<内容紹介>(「BOOK」データベースより)
わたしの家には、謎がある―双子の妹は、その存在を隠して育てられた。家族の秘密を辿ることで浮か
び上がる、人生の意味、時の流れの不可思議。生きることの孤独と無常、そして尊さを描き出す、大島
真寿美の次なる傑作。

絶えず流れているものを感じます。
それは時間であり、時代であり、誰かの人生であり、誰かの歴史である。
その中でぽこりぽこりと浮かぶ何かの始まりがあり、一つの終わりがある。
そういうものをただひたすらに淡々と描いた作品と言えます。

特異な「嘉栄」という存在に、囚われ、振り回され、耐え忍んだ一族の話ですが、
そういう特異さは物語ではそんなに強く描かれはせず、
それよりも人が歳を重ね、代を重ねることの方に重きが置かれている気がしました。
人と時間の尺度が違う嘉栄も、普通の人々も、いつか、と後回しにしてたことを後悔するのは同じ。
そんな風に、時間は自分の意図とは違う速度で流れているものなんだと気づかされます。
人生は、耐えるには長く、成し得るには短いのだと。
ピエタ』で言ってた「よりよく生きよ」という言葉が思い出され、胸に沁みました。

“希望”に囚われる人々。
現状をありのままに受け入れられず(無理もない話ですが)、
「もしこうであったら」と希望を持つから、そのギャップに囚われて、
がんじがらめの現状を呪うのです。
だから、「おかえさまはおかえさま。もうそういうもの」と言ってる深澤さんは、
嘉栄の存在に囚われることがないのでしょうね。
富世さんや、るるちゃんのやった、伝えるということ。
それはきっと全て嘉栄さんに向けられたもの。
それは何かに縋るような行為で、本人にはいろんな思いが邪魔をして伝えられない、
でも伝えずにはおれない本当の気持ちを、本当と思える気持ちを、
富世さんはるるちゃんに、るるちゃんは記録として綴っていったのでしょう。
嘉栄さんも言っていたけれど、それは本当はずるいこと。
だけど人ってそういうもの。
本当に伝えたい人に伝えられない時に、小説って生まれるのかもしれませんね。

そして絶望を抱えて、自由を演じる嘉栄。
いくつも自由を奪われて、それこそ窮屈なはずですが、
僅かに残り得た自由の権利をこれでもかと謳歌します。
その姿が周りには身勝手に見えたり、不可解に思えたりしたのでしょうね。
彼女が語る話だったら、果てしなく深いところまで沈みそうです…。
最後に彼女の手記がありますが、あれは他人の目を意識した手記ですから、
本音語りはもっと凄まじいはず。
そこで描かれる彼女の達観した様子が、それまでの経緯の惨さを想像させて苦しくなりました。
普通だったら気が狂いますよね…(T_T)
桂先生が彼女に伝えた言葉。
「誰にもわかってもらおうなどとは思わぬがよい」
それが、この世の理の外にいるものの心構えだったのでしょうか。
結局、彼女は誰にも理解を求めないで、永きにわたる孤独の道を選びました。
その壮絶さは、想像しえません。

作中、「(子を)うむ」という言葉がずっとひらがなだったことが気になりました。
「産む」「生む」という普通に子どもを欲して出産するということとは違うということを
示したかったのでしょうか?
この作品では、子をうみ、次世代に繋ぐということには、
本人の意思を汲まない、代々与えられた使命でした。
ウムは、倦むであり、膿むでもあり、熟むでもあります。
本人の意思によらずに、うむ時期が来たら、うまれる子ども。
彼女らは課せられる血の繋がりを倦んだでしょうし、
それは何代も繋がることで膿にもなっただろうし、
そして子を授かるのは期が熟した結果でもあったのでしょう。
ゼラニウム」という花の名前は、コウノトリに由来してるそうです。
子を授かるということは、まさに授かりもので、本人の意思を超えたものなのですよね。
代を替わるごとに彼女らの嘉栄さんとの対し方が変わってくるのも、面白いなと思いました。
子孫で繋がらない一代きりの嘉栄。
一人で長い時を見つめて、やがて悟りは神のような境地に達します。
一方、世代交代する女性たちは、血を受け継ぎ、同じような葛藤の中でも、柔
軟に変化を見せていく気がしました。
最後の葵なんて、随分と嘉栄の呪縛から解放されているように見えます。

これは女性たちの物語です。
男性は、他人にかき乱されることない自分の中の聖域を守るために行動し、
女性は、他人とのかかわりの中で、自分の安全な場所を求めて行動してるように見えました。
立場の孤立を許せない女性は、懸命に人に介入しながら、深謀遠慮を働かせます。
男性なら「ほっとけばいいのに」と思うことでも、
突き放せない、首を突っ込まずにはおれない、女性のその優しさや愚かさや嫌らしさは、
「繋げていくため」の本能なのかもしれませんね。